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神様の当たりくじ

SHUというのはうちの同居人(一般的には息子という)です。


神様の当たりくじ


晴天の霹靂

「この子は、泣いたときなど、顔色が悪くなることはありませんか?」 先刻から生後2ヶ月の息子の体を、やけに丁寧に聴診していた医師が、顔を上げるとそう言った。 「少しですが、心臓に雑音があります。念のため精密検査を受けてください。」
「はい」と答えて紹介状を書いてもらっても、なんだか他人事のようだ。
1ヶ月検診では何も言われなかったし、心配のない雑音という事もあるそうだし、子どもは元気そうだし。 本当に念のため。何でもないことが分かればそれで安心だから。
 そう思って連れていった大学病院だったが、幾つかのあわただしい検査の後、私は「両大血管右室起始症」 という病名とともに、すでに心不全を起こしているわが息子の、 切迫した状況を告げられたのだった。

太ってきた、と思っていたのは、むくみだった。母乳を与えていたので、哺乳量が減っても 気付かなかった。尿の量が減り、汗をかくのが特徴だそうだが、蒸し暑い日々の当たり前のことだと思っていた。
医師が一目見て分かることを、毎日見ていた私が、なぜ気付いてやれなかったのだろう。 細かい事は気にしない、 おおらか育児を目指していたのが裏目に出てしまったのだろうか。
このまま放っておけば、肺に流れる血液の量がどんどん増え、肺が壊れて死んでしまうこと、手術が必要なこと、 そんな医師の説明に、ただ頷いているだけだった。
「治らない心臓病はたくさんありますが、これは治る病気ですよ。」
診察室を出る時、医師が言った言葉を、今でも覚えている。
水底生活

8月。SHUの病気が発覚してから1ヶ月経った。
初めは「この子のどこが病気なんだろう。」と思っていたが、このごろすっかり心臓病児らしくなってきた。 嬉しくはないが。
利尿剤でむくみを取ったら、みるみるうちに痩せこけて、骨と皮になった。呼吸するたびにみぞおちが 大きくへこみ、あばら骨の下で肥大した心臓が脈打っている様子が見えた。

ミルクは1回40~60mlをやっと飲む。毎日、哺乳量と尿の回数を記録したノートとにらめっこ。 10ml増えたといっては喜び、減ったといっては落ちこむ親心だ。
1日の哺乳量が400mlを下回る日が1週間続いたら、鼻からチューブを入れると言われている。
10mlでもよけいに飲ませるために授乳回数を増やすよう、医師に言われて、このごろでは1日10回以上 ミルクを与えている。気温が少しでも上がるとぐったりして飲まなくなるので、 1日中窓を閉めきってエアコンの除湿を入れっぱなしだ。
相変わらず汗はよくかく。起きている時に機嫌のよいことが少なくなってきた。
ミルクの後は必ずぐずるので、たて抱きにして眠るまでずっと揺すってやる。 夜中のミルクの後、ぐずり続ける息子をラックに寝かせ、足で揺すりながら夜が明けたことが 幾たびかあった。
「とっとと手術して、とっとと治して。」 と言いたくなるが、そうもいかないらしい。
2週に1度の検診では、「厳しいねぇ」と言われるのに。

外出はほとんどしていない。エアコンの効いた部屋はしんとして、空気が青いような気がする。 息子の寝息に耳をすますと、水底にいるような気持ちになった。

 私はここ数日、ずっと生活費の計算をしている。
「一体、いくらかかるんだろう?」というのが、今抱えている問題だ。育児休業で収入が少ないのに加えて、 これからの入院・手術にかかるお金の見当がつかない。職場の貸付制度を使おうか?復職すれば 返済できるだろう。
……でも、果たして来春仕事に戻れるのだろうか?だいたい、この病気が根治するまで、どのくらい かかるのだろう?

 あとからあとから湧いてくる不安に潰されてしまいそうだ。病気が分かる前、幸せだった頃のことを 思い出して泣いた。
「SHUちゃんは、生まれてこなきゃよかったね。」
と、息子につぶやいた時、自分がとても醜い者に思えた。
もしも自分が病気になって、そのために自分が一番信頼している人に「あんたはいらない」と言われたら どんな気持ちになるだろう?自己嫌悪と息子への申し訳なさに、身悶えして嗚咽した。

 涙が涸れる頃、開き直りのような、吹っ切れた気持ちがわいてきた。
笑って過ごしても泣いて過ごしても同じ人生なら、笑った方が勝ちだ。
SHUの病気は治るんだ。どうせ一時の事だもの、何だってやってやろうじゃない。
 翌朝、とても嬉しい考えが、頭の中にやってきた。
「SHUちゃんよかったね。病気が治る日が、また1日近づいたよ。」



ガンかもしれない

 カテーテル検査が済み、手術のための入院日が11月1日に決まった。この検査で 息子の病気は、「両大血管右室起始症」ではなく「心室中隔欠損症」という、手術しやすい ものだと分かった。
 入院を3日後に控えた夕方、保健所から電話がかかってきた。
「先日提出されました、『神経芽細胞腫』の三次検査の結果が陽性でした。至急精密検査を 受けてください。」という内容だった。
 神経芽細胞腫は小児ガンの一種で、保健所でスクリーニング検査をしてくれる。その一次検査 二次検査の結果が陽性で、今度こそ間違いだろうと思って提出した三次検査だった。
 翌日、手術する病院に電話をかけ、事情を話すと、手術を延期して精密検査を先に してくれることになった。

 入院と同時に検査が始まった。私は泊まりこみで付き添いだ。
蓄尿・採血・レントゲン・エコー・CT・骨髄穿刺(こつずいせんし)。息子の涙は 涸れる間がない。汗まみれになって泣き叫びながら処置室から帰ってくると、私の腕の中で 眠ってしまう。そこにまた医師がやって来て、眠った息子を別の検査に連れて行くという具合だ。
 実家の両親が見舞いに来てくれた。
「検査で見つかれば治る病気なんだって。治らなきゃ、わざわざ検査なんてしないでしょう。 ウチの子は運がいいから大丈夫。本当にガンなら、見つかって良かったよ。
ガンなら治せばいいんだもん。」
 悲痛な面持ちで黙りこむ両親の前で、私は一人でしゃべっていた。 傍で見れば奇妙なものだったかもしれない。
「心臓病があると、ガンの手術は持ちこたえられません。ガンがあれば心臓の手術はできません。」 朝の回診で医師にそう言われたことは、どうしても親には言えなかった。

 初めの手術予定日を半月過ぎて、とどめの検査を終え、担当の医師が息子の枕もとにやって来た。
「画像の検査で、どこにもガンらしいものが見つかりません。ガンではないと判断します。心臓の 手術は4日後、11月22日です。」
 私はその次の晩倒れて、救急外来で点滴してもらったのだった。
クリスマス

 手術から1ヶ月。経過は良好で、あした退院の嬉しい知らせを受け、荷造りに忙しい日だった。 夕方になってだいたい片付き、ホッとしていると、突然、病棟の明かりが全部消えた。
「ただいまから、付属看護学校の学生がキャンドルサービスに回ります。」そうか、世間はクリスマス。 息子を抱いて待っていると、かすかに賛美歌の声が聞こえてきた。知っている歌だったので、 同室の人がいないのをいいことに、いっしょに歌うことにした。窓のガラスに私とSHUが 映っている。今までのことが一つ一つ思い出された。

 私はこの時代のこの国に生まれた幸せを思った。
人工心肺の発明で、多くの心臓病が手術で治るようになった。それまでに何人の子どもが死んでいっただろう。 神経芽細胞腫は、検査で見つかればたいてい治るようになった。それまでに何人の母親が子どもの 亡骸を抱いて泣いただろう。
補助金の制度ができることを待ちながら、力尽きた子どもは何人いるのだろう。

 賛美歌を歌いながら、私は会った事のない、たくさんの人を思った。そのたくさんの命に支えられて、 今、私のSHUは生きている。
涙がこぼれ、声が詰まって、もうそれ以上歌えなくなった。

 外の歌声が病室の前まで来たので廊下に出ると、学生のひとりが息子に、一輪のばらのつぼみを 差し出した。
「メリークリスマス!」
キャンドルの灯に照らされたSHUの頬は、ばらのつぼみとおそろいの、ピンク色をしていた。

 「土よりいでし人を生かしめ 尽きぬ命を与うるために 今ぞ生まれし君を称えよ。」


神様の当たりくじ
 手術の日を境に、SHUはゆっくり、確実に健康になっていった。
発達の遅れが心配だったが、1歳の誕生日の少し前に首が座り、1歳2ヶ月でお座りを覚えた。 離乳食も、食べない食べないと言いながら、いつのまにか食べるようになっていた。1歳半になる今 では、部屋じゅうを転げまわり、いたずらの種を見つけては目を輝かせている。医師は、 遅くとも小学校に上がるまでには、ごく普通の子どもになるだろうと言っている。

 子どもが1000人生まれると、そのうち7~8人に心臓の奇形があって、原因はわからないそうだ。 「貧乏くじを引いたようなもの」と、ある人は言ったが、SHUもその貧乏くじを引いて生まれた 子どもの一人だ。彼は幸い1年でその貧乏くじを克服したが、これからも幾つかの貧乏くじを 引くことになるだろうと思う。受験の失敗・失恋・失業・事故…さまざまな貧乏くじが 世の中には転がっている。

 だけど、よく聞いて欲しい。
自分のできる精一杯のことをして引いた貧乏くじは、ただの貧乏くじではない。
神様の当たりくじである。
受け止め方、使い方によっては、引いた人にしか受け取れない、宝物が手に入る。そのチャンスを くれる当たりくじである。
だからSHU、あなたの歩く人生で、恐れるものはそんなにないのだと、 いつか息子が分かるようになったら話したいと思う。

そしてそのとき、SHU自身が私にとっての大きな当たりくじだったことを、忘れずに付け加えたい。
その後の話

「神様の当たりくじ」は、私が25歳、SHUが1歳8ヶ月のときに書いたものです。
(というか、病気発覚当初から書き溜めたものを、まとめてひとつの作品にした) その後、SHUは無事に成長し、2歳半で歩くようになりました。 1歳までの時間、ほとんど寝たきりで過ごしていたため、 言葉や社会性の遅れもかなりありましたが、3歳ごろには結構しゃべるようになりました。
「小学校に入るまでには、普通の子どもになる」というのは、OPE直後、 まだ酸素テントに入っていた頃にドクターに言われたことですが、 その言葉どおり、小学校入学までには、普通に育った子どもと何ら変わりなく、育ちました。 胸の、胸骨の上からみぞおちまで、まっすぐに手術痕はありますが、だいぶ目立たなくなりました。
 私自身、彼が昔、体じゅうに点滴の管や酸素吸入のカニューレや、導尿管やドレーンの管をくっつけて ベッドに寝ていたのが信じられないような気がします。
でもやっぱり、彼という当たりくじで手に入れたものは、私の中にはっきりと存在します。


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